生き残ったのは「42-65305」号7名、「42?93953」号4名の計11名であったが、東京からの暗号命令で「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」とする命令により、
ワトキンス機長のみが東京へ移送された。残り10名の捕虜の処遇に困った西部軍司令部は、裁判をせずに死刑とすることにした。
このことを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。
これを軍が認めたため、うち8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。
九州大学生体解剖事件
九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、第二次世界大戦中の1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現九州大学)医学部の解剖実習室においてアメリカ軍捕虜に生体解剖(被験者が生存状態での解剖)が施術された事件。相川事件ともいわれる。
実験目的と方法
実験手術の目的は、主に次のようなものであった。
不足する代用血液の開発のための実験
結核の治療法の確立のための実験
人間の生存に関する探求
新しい手術方法の確立のための実験
手術方法は、主に次のとおりであった。
血管へ薄めた海水を注入する実験
肺の切除実験
心臓の停止実験
その他の脳や肝臓などの臓器等の切除実験
どれだけ出血すれば人間が死ぬかを見るための実験
※全文、詳細はソース元で
https://ja.wikipedia.org/wiki/九州大学生体解剖事件
続きを読む
Source: 不思議
米兵「日本軍の捕虜になってもた…」日本軍「ふむ…病院行こか!」米兵「健康診断!?サンキュー!!!」→結果…