が有名だがどうなん
外国の偉人を自国人にしたがるのはどこも同じ
一、時代が同じ:日本の皇室に伝わる国宝の剣・鏡・玉は、秦時代に造られたものだ。
二、政治が同じ:神武天皇の政治は、秦時代の政治制度と似ている。
三、日本は自称神の国で、神様を祀る事を重視している。徐福と同じだ。
四、地理が同じ:神武天皇が開国した橿原付近には、琵琶湖があり、平原がある。徐福がたどり着いたとされる“平原広沢”の地理的状況と似ている。
五、現れた時の状況が同じ:『日本書記』では、神武天皇は幼い男女と共に船に乗って現れたとされている。徐福は幼い男女3000人を連れて、船で日本へ渡った。当時の日本は石器時代だったから、船を造る技術はなかったはずだ。
六、神様の数が同じ:秦時代の中国では、7人の神様を祀るのが主流であった。しかし、徐福の出身地である琅邪地区では、8人の神様を祀っていた。日本でも8人の神様を祀る習慣がある。
七、父親の名前が同じ:神武天皇の父親の名は、彦波潋武。“武”が本人を表す名前である。徐福の父の名は徐。“武”と“猛”は、日本語の訓読みで発音が同じである。
八、年代が同じ:神武天皇が即位したのは紀元前203年。徐福が最後に海へ出たのは紀元前210年。
九、考古学的に同じ:日本古来の文化である縄文文化は、文明レベルが低かった。一方、外来文化である弥生文化は、文明レベルが高かった。弥生時代の青銅や米の種子が発見されている。中国からの移民が、先進的な工具と稲作技術を持ち込んだに違いない。
十、遺跡が同じ:神武天皇ゆかりの地とされているところは、徐福ゆかりの地でもある。
だから同じ時代の証拠がないって
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。
日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。
ゼロってことはないでしょ
その後の鎌倉幕府の内部抗争や将軍家の断絶を考えたらどれだけ頑張っても暗殺されたと思う
中国では「中国人が日本を建国した」と言う説がある。日本へ渡った徐福や、それが連れて行った人々が日本人の先祖だと言うのがそれだ。
徐福については『史記』に詳しい。その「秦始皇本紀」によれば、紀元前二一九年、秦の始皇帝に命じられ、
不老不死の薬を持ち帰るべく、数千人の若い男女を率いて、仙人が住むと言う海の向こうの蓬萊、方丈、瀛洲へ派遣された人物だ。
しかし数年後になり、巨大なサメの妨害で目的地に達することができず、始皇帝の軍にそれを殺させた後、再び出航したとある。
同じく「淮南衡山列伝」によれば、蓬莱に向かう途中で海神と出会い、引率の男女を捧げたとある。
それとは別に気候温暖の地に至ってそこで王となり、帰らなかったともある。
もっとも蓬莱、方丈、瀛洲などの位置はいまだに特定されていない。『史記』の「封禪書」は「渤海」に位置するとある。
その王になったと言う地が日本ではないかと言われている。『三国志』では、徐福が渡ったのは亶洲と夷洲とあり、
それは中国の東南にあるとされたため、それぞれ日本と台湾ではないかと推定されたためだろうか。
「巨大なサメ」だとか「海神」だとか、その渡日の歴史は史実と言うより考証不可能な伝説に属するが、
その伝説はやがて日本へも伝わり、今でも国内各地で伝承されている。渡来人の歴史伝承が「徐福伝説」となったのかも知れない。
日本の「はた」(秦、羽田)の姓は帰化人の末裔とされているが、秦の王族の流れだとの言い伝えもある。
かつて羽田元首相が「自分は徐福の子孫だ」と発言したことが、中国で大歓迎されたこともあった。
中国では徐福は、日本に農耕、医療、捕鯨、製紙を伝えたとの「歴史功績」が強調されている。
神武天皇の九州から大和に至る東征と建国は渡来勢力によるものだとする説があるが、
五〇年代から「神武天皇が徐福だ」と主張し続けていた中国人学者が衛挺生氏(故人)だ。
日本でも七〇年代に『神武天皇=徐福伝説の謎』と言う著書が発行されており、
日本人の古代史へのロマンを掻き立てたことがあった。
徐福とはあくまでも伝説上の人物なのだが、そうした説は中国で広く定着し、
メディアでもしばしば取り上げられている。最近の中華ナショナリズム高揚のなかで、
「徐福が日本を建国した」は紛れもない史実として語られているのだ。
たとえば香港のニュースサイト「中国新聞評論網」などは衛挺生説を真実だと断じる論文を掲載している。
論文は、「日本の古代史は馬鹿げていて、半分は荒唐無稽の神話で、半分は捏造された偽史だ」とし、
「現代の日本人は偽史に気付きつつあるが、歴史への不信感も時には度が過ぎ、
彼らの皇室が中国から伝わったものだと認めることを嫌っている」などとした上で、
「しかし我が国の学者である衛挺生博士はその不朽の対策の中で、
神武天皇こそが徐福であることを確実に証明しているのだ」と断じているのだ。
そこでは衛挺生説を次のように紹介する。
―――七二〇年、『日本書紀』が完成した。その「神武紀」は神武天皇本紀で、東征のくだりが最重要だ。
それは神話のように見えるが、故意の虚構ではない。衛博士に考証によれば、
「神武天皇が日本生まれでないことは確かだ。“高天原の天磐船から飛び降る者”とあるが、
“天磐船”とは航海の船であり、“飛び降る”とは帆船の操縦を言い、“高天原”とは海外の一地域を指す」と言う。
―――「日本の文化レベルが縄文文化に留まっていた中、突然青銅を使うの弥生文化へと飛躍した。
衛博士の研究によれば、「出土する青銅の武器の形式は、大陸中原の刀剣戈矛と異ならず、神武の兵器の技術は大陸からのものだ」となる。
ここまではよく聞く学説のようでもあるが、次となるとどうか。
―――神武とは誰なのか。衛博士は「必然的に徐福だ。徐福は日本に到着後、始皇帝の追跡、偵察、さらには討伐を恐れ、
言葉の隔たりを利用して秘密を保持した」「当時通用していた中国の言葉を禁じ、始皇帝の愚民政策を採用した。
文字は元凶で、知識思想の最も恐るべき媒体であり、それを徹底的に廃棄した。文字は広く流布される前に扼殺されたのだ。
当時はなお手元には斉、楚など各地から徴用してきた若い男女が数千人がいたが、中国文化を授けず、倭化を施した」とする。
―――以上が衛博士の「神武紀」の分析だが、我が国の各種文献にある徐福に関する記載を検証して推断しても情理に適っている。
神武は確かに存在したが、ただ神武即位の年が符合しない。「神武紀」では辛酉の年とされるが、
それは紀元前六六〇年で徐福が生まれる四百年以上も前だ。しかし神武時代、日本には歴史編纂法はなかった。日本には本来、暦がないのである。
―――衛博士の研究は、歴史の大きな謎に関して解答を与えたのだ。
引用元: ・http://hebi.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1553815240/
Source: mindhack
始皇帝を裏切った徐福が神武天皇説←これマジ?